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みんなの「ココロ」ブログ


それなりにまたスタートに

2012/02/22 12:57
20、25、30、35、と人というのは節目、要するにキリのいい数字の年齢になると一定の不安感に襲われるのではないかと考えるのは僕だけだろうか?

人それぞれに、独身だったり(僕のように)、子供がいたり、仕事が順調であったりなかったりその数字の時間を迎える状況は異なるだろうけれど、節目というのは端的に言えば、人間に「コレでいいのか?」という疑問を持たせるタイミングなんじゃないかと思う。


僕は3か月くらい前に35を迎えることとなって、その少し前からこれまでにないほど無気力な、希望のない時間を過ごしていた。もちろん最低限の日常生活をこなしながら、むしろ仕事面では人生で一番忙しいだろう時間を過ごしながらではあるものの。

5年前に30歳を迎えたときは、自分でも驚くほどに希望に満ちていて、極端にいえばあらゆる可能性が目の前に広がっているかのような感覚をもって、実際にいろいろなことにチャレンジをしたけれど、35歳というのはこれまで感じたことがないほどに希望、または可能性というものがない、絶望的な段階だった。

以前エントリーしたような気がするけれど、世の中には「35歳問題」という概念があって、それは、”可能性”の中から一つのものを選びその他を切り捨てていく人生という過程の中で、35歳という年齢は残された”可能性”の量が分水嶺を超えて極端に少なくなって感じられることで、一定のうつ状態になるような、そんな問題を指しているけれど、実際そこを通過してみたら、「なるほど確かに」と思うところがあった。

確かに人生の可能性が極めてゼロに近くなったような感覚になるのだ。


だいたい冬にはウインターブルーになるのだけど、それに加えてここ数か月は、無気力でもないけれど、先行きの見えない感覚に襲われて、まずまずの苦しい状態に陥ってしまったような気がする。


サヘル地帯の飢饉ほどではないけれど、それ相応に苦しいシーズンで、世界の片隅でもがいていたわけだけれど、今日起きてみたら、なぜだかそこを通過していた。


ふと身軽になったような、力が抜けたような。



そうしてたどり着いたのは何かというと、アホみたいな話で「自分は間違っていない」という結論で、なんだか書くのも恥ずかしい話だけれど、「これでいいんだ。やろうと思うことをやればいいんだ。」というそんなところに落ち着いた。


大したことではないけれど、結構悩んだ末に”あるべき場所”のようなところにきちんと戻って来れた気がして、それがうれしくて、久しぶりに誰も読まないブログを書いているのだけれど、ただそれだけの話。


ただ、30歳のときは、大人になりつつも20歳くらいの尖った気持ちが再び現れてくるような、少しずつ上昇しながら円を描くような、そんな感覚で戻るべきところにたどり着いた感覚があったのだけれど、今回は少し違って、まったく別の場所にたどり着いたような気持ちになっている。


さあそれが何を表すのか、楽しみながらやっていこうかな、と思います。



※サヘル地帯は、本当に気持ちが苦しくなります。





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選択

2007/12/03 23:15
茶道には一期一会という概念がある。

広く一般的に使われる熟語だけど、茶会に臨むには一生に一度の機会と思って臨め、という教えから来ているらしい。

時間の大切さなんてものは、日常的に反省や後悔を含みつつ考えさせられていることで、時は金なりとか似たような言葉もたくさんあって、聞き飽きているくらいの感覚すらある。


30年程度生きてきて、自分で飽きるほどそれを考えてきたけれど(不思議と飽きないけど)、僕にとっての2007年は、その一期一会という価値観が心に落ち着いたという点で大きな変化の年だったと思う。
彼は心に「すっ」と入ってきたのだ。


茶道を始めたこととそれから派生したいろいろなことが原因なのか30という年齢を超えたことが原因なのかよくわからないんだけど、それによって相手が親族であっても、仲間や友人であっても、大切な人であっても、人と共有する時間というものをとても大切にするようになった。(もちろん一人の時間も)


大切の仕方もいろいろあると思うけれど、同じ場とメンバーで同じ雰囲気で同じ話題を繰り返せることは絶対に死ぬまでに二度とはないということが漸くわかったから、自分の発言と行動をすごく慎重に選択しするようになって、場を乱さない(今まで乱していたわけじゃないけど・・)ように、自分のできる範囲で和を高められるような行動を選ぶようになった。
もちろん必ずしもうまくいかないときもある。
それに、ちょっと「思いきりよさ」を失ったかな、とも思うけど・・・。


10年前の自分と議論できたとしたら、これはたぶんあっさり否定されちゃいそうな考え方で、当時は率直な発言こそ価値があると思っていたけれど、いったい何が変わっちゃったんだろうな?


この変化が成長なのか退化なのか、
善悪も含めて、わかんないなぁ。

でも、もっと早く気がついて然るべきだったかなぁ、とも思うのだ。

どうなんだろうね。




そんな感じで、これも2007年を振り返るの巻でした。


もう12月なんだね。


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Personality One

2007/01/30 00:12
成功の裏にも失敗の裏にも同じ人間がいる。

最近、そう思うようになった。

勝ち組と負け組。
成功と失敗。
栄光と挫折。

今までは、両者の間に大きな隔たりや、
根本的な差異があると思っていたけど、
もしかしたらそれは違うのかもしれない、
と思うようになった。

大いなる差異を生み出すのは、ほんの些細な差異なのではないか、と。

この考え自体がもしかしたら負け組の論理かもしれない、
と思い、おびえることもあるのだけれど、
なんとなくそんなに正解からはずれていない気がする。


今現在ひとつの存在としての自分は、
確率的に100%それしかないのだけれど、
あしたや1年後や10年後は、
存在としての可能性が数え切れないほどあるわけで、

だからそんなに難しく考えずに、
自分の前に現れる出会いを大切にしていこうと思う。

その出会いがが人でも、趣味でも遊びでもね。


何かをしようと無理に力を入れる必要はなくて、
ただ、可能性を生み出す『出会い』ということに対して開いていようと思う。


そして、そういった『出会い』の組み合わせが、オリジナリティというものにに繋がるんじゃないかと思った次第です。


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セマンティック

2006/12/07 22:49
最近、記号論というものに少し興味を抱いてる。

ちょっと前に、友人(プロの芸術家です)と「芸術とは何か」ということについて語り合っていて、
そのことについてしばらく考えていたら、記号論みたいなものに行き当たったので、
ネットで色々読んでみてる。

すごく略して言うと、「芸術とは脳内物質を分泌させる記号だ」というような考えが浮かんできたから、なんだけど。


で、その記号論。

ソシュールとかデリダとかいろいろ出て来て、まぁ色々と主張がある。当たり前に。

説明するのはちょっと骨なので、省略して、
ちょっと誰かに聞きたいことがあるからこれを書いてる。

記号論って、視覚の受容する光信号や聴覚の受容する音波も記号と定義するものなのかな?
体内の物質(信号)も?

色々参照していると、記号論でも実在論と観念論が対立していて、
それって記号論じゃねぇじゃん、って思ったの。
実在があるかどうかはわからなけど、

我々⇔記号⇔世界

という風に記号が媒介となるとして、
我々は記号でしか世界を感知できなくて、思考も記号によって行っているとしても、
記号は記号以上のことは語れないわけだから、
実在か観念か、ということに言及しちゃまずいんじゃないの?と。
そこは不可知なんじゃないかな。


つまり
なんでそんなことに言及しちゃうわけ?
っていうのが聞きたいです。


はい。
まだ全く考えがまとまっていないので、かなり雑文です。
すみません。

もちろん記号論は世界観を新たにしてくれているので、
とても感謝しています。
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前提

2006/07/26 00:11
最近、こころの前提を変えようと努力している。

自分の考える色々なことは、
その時々の思考の対象ではないところで、
いろいろな前提、
たとえば自分の能力であったり、現状分析であったり、
世界認識であったりと、
を置いていると思っているんだけど、
最近それを変えようと努力している。

色々なことがうまくいかないと思う毎日で、
それがあっという間に過ぎていくのだけれど、
考えてみたところ、
アタリマエに自分の認識に誤りがあるのだと思った。

単純にいえば、
自分はできる、と基本な方向として思っていた。
可能性あり、って。


今はそれを変えようと試みている。
失望するとかいう悪い方向ではなくて、
ありきたりの謙虚さでもなくて、
うまくいえないんだけど、

「基本、できない自分」

をスタンスとして、できることの喜びをもっと噛み締めつつ、
素朴になれたらよいな、と思う。

うまく書けないんだけどさ。。


なんか、怖かったんだよ。
そう思うのがね。

でも、まぁ、一旦いいかなぁ、ってちょっと思って。

ある種のチャレンジなんだ。

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Key to the Heart

2006/05/26 01:57
30年目にしてようやく気が付いた。

こころには鍵のようなものがあること。


自分のこころには鍵状のものがあって、
普段はもちろんしっかりと施錠されているけれど、
ふと、開けられたりすることがあって困る。

気が付いたら開けられていたり、
開けなきゃいけないのに開かなかったりしている。
うまいこといかない。

異性の中にもそういうものが、当然ある。

だから最近は、異性の中で自分の鍵を持っている人を探そうと、考えてみている。

好みのタイプとかよく言うけれど、
「鍵を持っている」って、
単純でいいかも。


でもなかなか見つからないんだよな、これが・・・

鍵穴の形も変わっていくし、
穴を大きくするようにがんばってみたりするけれど。


そして、もうひとつの問題は、
僕はどれだけ多くの人の心を開けられるか、
ということだ。


まぁ、こんなこと考えてるから結婚できないわけだ。
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真実と世界について歌います

2006/05/17 00:25
世界は自分の中にしかない

僕の世界は僕の中にしかなくて

君の世界は君の中にしかない

だから、よいとかわるいとか、考えなくていい

自分だけの世界に
事実が存在するだけなんだ


僕が君を愛しているというのは
それは僕の世界の中の君を愛しているということなんだけど
僕の世界の中の君は
君の世界の君にはないところがあったりして(不可知だけどね)
とても好きだ

僕の世界の中の君と
君の世界の中の君の集合は
どれくらい重なっているんだろう


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時間の等価性について

2006/05/17 00:15
僕は世界を把握しきれないからこそ、
自信を持っていられるのだろう。

そして、
社会を知るたびに、
不安になってしまいます。


時間とともに積み重なる知識を喜び、
年を経るごとに薄れてゆく記憶に哀しみを覚えます。

二度と来ることのない今と
今の積み重ねによる未来。

そんなものに、いつも戸惑っています。


君は、過去も現在も未来も等価であることを知っているか?

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